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MLB史上最高!レギュラーシーズン終盤でベストパフォーマンスを見せた選手たち

MLB

こんにちは!

ちょっかんライフです。

日常のなかで、直観レーダーにピピピッと引っかかったアレコレを取り上げるページーー。

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メジャーリーグベースボール(MLB)において長いレギュラーシーズンを戦い抜き、さらに終盤にかけても好調を維持したり大きくギアチェンジできてしまうというのは本当に凄いこと。

最終月のビッグパフォーマンスは、大事な勝敗を左右するばかりか、選手個人の表彰やタイトル争い、果てはチームのポストシーズン進出にも影響を及ぼしかねません。

日本時間9月8日、MLB.comのジェイソン・フォスター記者は、エクスパンション以降の数値データや記録をもとに、これまでの最高シーズン終盤戦を振り返っています。

当記事では、その中でもインパクト大の功績を残した選手をpickしてお届け。

どうぞ最後までお付き合いください。

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MLB史上ベストなシーズン終盤戦とは

今回取り上げる選手とその記録の数々は、エクスパンション時代を対象とした最高シーズン終盤戦について。

ここで言うエクスパンション(expansion)とは、1960年代から1990年代にかけてMLBが球団数を大幅に増やし、アメリカ全土にフランチャイズを拡大した時代を指します。

主なタイムラインについては以下にまとめました。

<MLBにおけるエクスパンション(拡大・拡張)>
1960年代
1961年:アメリカン・リーグのエクスパンション
・ミネソタ・ツインズとロサンゼルス・エンゼルス(現ロサンゼルス・ドジャース)が新規参入
・この球団拡張を皮切りに MLBの球団数が増加し始める
1962年:ナショナル・リーグのエクスパンション
・ヒューストン・コルツ45’s(現ヒューストン・アストロズ)とニューヨーク・メッツが新規参入
・ニューヨークの空白地帯が埋まり、ヒューストンには初のMLB球団が誕生

1969年
1969年:東西地区制の導入とさらなる球団拡張
・両リーグでさらに2球団ずつが加わり各12球団に。また東西2地区制も導入される
1970年代後半~1990年代
1977年と1993年:さらなる球団拡張と地区再編成
・ア・リーグ、ナ・リーグともにそれぞれ2球団増え14球団に
・この際、3地区制(東・中・西)が採用される
1998年:30球団体制へ
ア・リーグ、ナ・リーグがそれぞれ1球団ずつ増やし30球団体制となる

それでは、ベストパフォーマンスの数々をどうぞ。

2000年
ヒューストン・アストロズ
ベストパフォーマンス/打率.477

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ベネズエラ出身のリチャード・ヒダルゴ(当時25歳)は8月末日までに打率.275、33本塁打という好成績をあげ、アストロズ打線でもひときわ存在感を放っていました。

そして、その勢いはとどまるどころかシーズン終盤にいっそう拍車がかかり、9月以降で29試合に出場、11本塁打、51安打、32打点、打率.477を記録。

打率
ヒット数(安打数)を打数で割った割合で安打の確実性を表す指標のことで、打率が高いほど打者が安定してヒットを打てると評価。
計算方法:
・安打数(:ヒットを打った回数)を数える
・打数(バッターボックスに立った回数;バントやフォア・デッドボール等除く)を数える
・「安打数 ÷ 打数」を計算する
例)
10打数3安打の場合、打率は 3 ÷ 10 = 0.300(3割)

シーズン最後月だけで2ゲームを除き、少なくとも毎試合1安打をマーク。OPS(出塁率+長打率)は驚きの1.486をたたき出し、プレイヤー・オブ・ザ・マンスに選出。

チームは72勝90敗でナ・リーグ中地区4位に沈みましたが、本人は最終的に、打率.314、44本塁打、122打点、13盗塁、OPS 1.028と自身キャリアハイの成績を残しています。

なお、MVP投票では初選出されたものの、ジャイアンツのジェフ・ケント(.334、33本、125点、12盗)が受賞、ヒダルゴは20位に終わりました。

2001年
サンフランシスコ・ジャイアンツ
ベストパフォーマンス/OPS1.685

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そのキャリアを通じて数々の記録を打ち立ててきたバリー・ボンズ(当時37歳)にとって、2001年9月から10月にかけては最も輝いた時期のひとつ。

その間だけでMLBベストの16本塁打を放ち、38 BB(フォアボール)を選び、31安打中、20安打は長打、最終27試合で驚異のOPS 1.685を記録。このシーズン、ファイナル期間における彼のスラッシュラインは.403/.607/.1078に達しました。

スラッシュライン
打率、出塁率、長打率を「/」で区切って示した打者の成績指標。「.●●●/.●●●/.●●●」のように表記し打者の総合的な攻撃力を評価するのに用いられる。

また、この年は「9.11」の余波を受け、9月中旬にメジャーリーグ全体が1週間の休養を余儀なくされたにもかかわらず、この休みは彼の成績に何の影響も及ぼさず…。

ボンズは終盤でも目覚ましい活躍を見せ、最終的に打率.328、出塁率.515、長打率.863、MLBシーズン記録となる73本塁打、自己最多の137打点を記録。チームはナ・リーグ西地区2位となり優勝を逃しましたが、自身は史上初となる4度目のMVPを受賞しています。

1995年
クリーブランド・インディアンス(現クリーブランド・ガーディアンズ)
ベストパフォーマンス/17本塁打

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アルバート・ベル(当時29歳)は90年代を代表する強打者の一人であり、メジャー定着後のキャリア10年間でシーズン平均37本塁打超を放った選手。

1995年シーズンは、後半に入ると凄まじいスピードで本塁打を量産するようになり、8月に14本、9月中旬の試合では2日間で5本のホームランを打ち17本塁打とし、MLB全リーグトップの通算50本塁打をマーク。

インディアンスはストライキで短縮されたシーズンで100勝を挙げ、独走態勢で地区優勝を飾るとともに、リーグチャンピオンシップシリーズでは41年ぶりとなるア・リーグ優勝を果たしました。

ただ、ベルはMVPの最有力候補と目されていましたが、投票を争ったRソックスのモー・ヴォーン(.300、39本、126点、11盗)と、打点は同数、打率・本塁打・出塁率・長打率で上回る成績を残したにもかかわらず、8ポイント差の2位で受賞を逃しています。

1980年
オークランド・アスレチックス(現アスレチックス)
ベストパフォーマンス/34盗塁

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他の追随を許さぬ盗塁数から「Man of Steal(盗塁マン)」と呼ばれ親しまれていたリッキー・ヘンダーソン(2024年12月肺炎のため65歳で死去)。

先頭打者として常に塁に出て09年に殿堂入りを果たした同選手は、メジャー2年目のシーズン終盤で信じがたい数のスチールを決めまくり、最終月9月(27試合)と10月(4試合)だけで34盗塁をマーク。うち1試合に2盗塁以上が8試合、2つの試合ではなんと4盗塁を記録。

チームはこの年地区2位に終わりましたが、ヘンダーソン(当時21歳)はメジャー初にして最多記録となるシーズン通算100盗塁を達成。しかも彼にとってそれはキャリアハイではなく、82年には現在もMLB史に残る130盗塁という偉業を成し遂げるのですから驚きです。

25年のキャリアで積み上げた通算盗塁1406という途方もない数字はMLB歴代最高を誇っており、彼の功績は今なおメジャーの歴史に燦然と輝いています。

1988年
ロサンゼルス・ドジャース
ベストパフォーマンス/防御率0.00

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ドジャース専門局SportsNet LA(スポーツネットLA)の専属解説者で、しばしば大谷や山本についてもOB投手の立場から多くのコメントを残しているオーレル・ハーシュハイザー氏。

当時30歳を迎えたばかりのドジャースの右腕は、1988年シーズンの最終月、6試合に登板して55イニングを投げ無失点という完璧な防御率 0.00を記録。

防御率(ERA: Earned Run Average)
投手が「1試合(9イニング)を投げたとしたら平均で何点失点するか」を示す指標。
計算式
自責点 ÷ 投球回数 × 9
※数値が低いほど失点を防ぐ能力が高い優秀な投手と評価
自責点
投手の責任ではないエラーやパスボールなどの失点を除いた、投手が責任を負う失点のこと

これには8月末からの5試合連続完封勝利が含まれ、またシーズン最後の登板となったパドレス戦でも10回を0点に抑え、59イニング連続無失点でメジャー記録更新。レギュラーシーズンの最終成績は267.0イニングで15完投、8完封、23勝を挙げリーグ最高をマークしました。

ここでちょっとしたトピックをひとつーー投手ハーシュハイザーは、同年のワールドシリーズ第2戦で3安打完封勝利としたうえ、バッターとしてもシリーズ史上64年ぶり ”ピッチャーの1ゲーム3ヒット” を打ったーー稀有な記録の持ち主。

こうして88年シーズンは、リーグ優勝決定戦MVP、ワールドシリーズ優勝と同シリーズMVP、さらにゴールドグラブ賞、満場一致によるサイ・ヤング賞獲得で締めくくったのです。

1972年
カリフォルニア・エンゼルス(現ロサンジェルス・エンゼルス)
ベストパフォーマンス/86奪三振

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1965年ドラフトでメッツから12巡目に指名を受けたノーラン・ライアン。プロ入り当初は制球に苦しみ、思うような成果が出せないまま71年にエンゼルスへ移籍。

すると翌年、当時25歳の右腕はいきなり才能が開花。特にシーズン最後の1ヶ月は、そうは見られないほどの奪三振ショーを披露。

終盤戦の9月に7試合、10月は1試合に先発し68回と2/3イニングを投げ、うち6試合で二桁奪三振を記録。この期間にそれを3試合以上でも記録したMLB投手は他に誰もいません。この圧倒的な活躍は、9月12日の15奪三振、そして9月末日に17三振を奪ったことでいっそう注目を浴び、8試合トータルは驚異の86奪三振に。

10月最終試合も10奪三振で締め、シーズン329奪三振を獲得し、リーグ最高の完封9回も達成。エンゼルスは75勝80敗でア・リーグ西地区5位に終わったものの、自身は19勝16敗、防御率2.28という成績を残しました。

ライアンにとって1972年は、のちに27年間のキャリアで6度にわたりシーズン300以上の奪三振、最多奪三振タイトル11回、通算最多5714奪三振の記録保持者となる幕開けの年となったのです。


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