佐藤琢磨レーサーの今現在と所属は?来季引退?インディ500参戦?

気になる人物

こんにちは!

ちょっかんライフです。

今回も一人暮らしの直観レーダーにピピピッと引っかかったアレコレを取り上げてまいります。

F1とインディカー、両方の表彰台を知る唯一の日本人レーシングドライバー・佐藤琢磨さん。

1977年1月28日、弁護士の父親と元舞台女優の母親のもと、東京都新宿区戸山に生を享けました。

佐藤琢磨さんがF1の存在を初めて意識したのは10歳の時、1987年に鈴鹿で開催された日本GPを父親と見に行き、アイルトン・セナの走りに魅了されたのがきっかけだそうです。

ただ、高校では自転車競技にのめり込み、教師に掛け合って自転車部を創設、3年生の時にはインターハイで優勝までしてしまったといいますから、その行動力と目標遂行能力は尋常ではない気がします。

本格的にレーシングカートを始めたのが19歳の時。

難関の極みとまでいわれた鈴鹿サーキットレーシングスクール(SRS-F)に一発合格、年齢制限ぎりぎりで入校します。

早稲田大学を休学し専念したことで、じきにチャンピオン経験者や講師陣をも凌ぐ速さを発揮するようになり、SRS-Fを主席で卒業、全日本F3選手権参戦のスカラシップも獲得したのでした。

そして、名門チーム無限×童夢プロジェクトで2レースを戦った後、イギリスF3参戦のため渡英を決断します。

ただし、F1関係者も注目するイギリスF3での失敗は2度と取り返しがつかないことを熟知していた佐藤琢磨さんは、リスク回避のためまずはいくつかのジュニア・フォーミュラで実績を積んでいきます。

迎えた2000年、設立間もないにも関わらずトップチームに遜色ないポテンシャルをもつカーリン・モータースポーツ(現;ロダン・モータースポーツ)からイギリスF3へと参戦しました。

このように、いきなりイギリスF3選手権に挑戦することをリスクと捉える判断力、新興勢力チームの傑出した組織力を見抜く選択眼などは、佐藤琢磨さんが培った才能の一端のように感じます。

人がその道を究められるか否かは、こういったところで差がつくものかもしれませんね。

初年度の佐藤琢磨さんはランキング3位、翌2001年には全26戦中12勝の成績でチャンピオンの座に、又、シルバーストン、ザントフールト、マカオで開催の国際F3レースも制しF3界の頂点に立ったのです。

その一方で、BAR ホンダの若手ドライバー育成プログラムにも参加、F1マシーンのステアリングを握る機会も得て、テストドライバーとして起用されます。

そして2002年、デビューシーズンを迎えた佐藤琢磨さんは最終戦日本GPに臨み、決勝でも完璧なレース運びを見せ5位入賞を果たしました。

ーー初めてレーシングカートに乗ってからわずか5年でF1の世界にたどり着くとは、モータースポーツ界において奇跡に匹敵する快挙といって過言ではないとされていますから驚きです。

2003年、佐藤琢磨さんはBAR ホンダに移籍し、リザーブドライバーのポジションで実戦から離れた苦しい時期を過ごすのですが、突然のチャンスが巡り最終戦の日本GPで鈴鹿を走ることになります。

ピンチヒッターながら快走した佐藤琢磨さんは見事6位に入賞し、ラッキーストライクB・A・Rホンダは逆転でシリーズ5位の座を掴み取ったのです。

翌2004年、佐藤琢磨さんはラッキーストライクB・A・Rホンダのレースドライバーに昇格。

このシーズンが、F1時代のハイライトともいうべきものとなり、第7戦ヨーロッパGPでは、“皇帝”ミハエル・シューマッハとフロントローに並んだ際には、佐藤琢磨さんのファイティングスピリットに惜しみない拍手が贈られました。

そして第9戦アメリカGPでの3位フィニッシュは、日本GPでの鈴木亜久里の3位表彰台に続く日本人として2人目、実に14年振りとなる成果をあげたのです。

そこから一転して佐藤琢磨さんにとって苦境の年となったのが2005年。

第2戦マレーシアGPでの発熱による欠場、第4戦サンマリノGPではマシンの最低車重違反による失格と2レース出場停止処分…

さらに不運は続き、チームメイトの移籍への意向が急遽反故にされ、事実上、佐藤琢磨さんがB・A・R ホンダから押し出される形となり2006年のシートを失う格好となってしまったのです。

そんな中迎えた2006年、鈴木亜久里率いるスーパーアグリF1チームより参戦。

エンジンがホンダ、タイヤはブリヂストンと“オールJAPAN”パッケージで挑んだものの、ポテンシャルが低く最終戦ブラジルGPでの10位が最高位という結果でポイント獲得とはなりませんでした。

2007年は、ホンダの協力を得て戦闘力が飛躍的に向上、第4戦スペインGPで8位入賞し設立1年半のチームに初めてのポイントをもたらし、第6戦カナダGPも6位で走り切りました。

続く2008年は、佐藤琢磨さんのF1時代で最も困難を強いられた1年となったようです。

レギュレーション(F1規定)変更にうまく対応できず、マシーン開発遅れによる戦闘力低下に加え、スーパーアグリF1(SAF1)の財政難は極限に達し、ついにチームは第4戦スペインGPを最後にF1から全面撤退を余儀なくされてしまうのです。

その後の佐藤琢磨さんは、ル・マン24時間耐久レースなどへのオファーを受けますが、「F1から引退するつもりは全くない」とすべて断り、あくまでF1のレギュラーシートを目指します。

実際のところ、スクーデリア・トロ・ロッソのテストでは好パフォーマンスを見せて復帰への可能性を十分に感じさせるものだったのですが起用までには至らず。

F1という夢舞台での活動はここで一度幕を閉じることになってしまいました。

そして当の本人も「F1のシートを失って、キャリアが終わった……」と感じていたといいます。

2010年を皮切りに、佐藤琢磨さんの目は心機一転!新天地アメリカに向けられ、KVレーシング・テクノロジーからインディカー・シリーズへの参戦を表明、ここに新たな挑戦の第一歩を踏み出します。

その後2012年インディ・カーの頂点を目指す佐藤琢磨さんは、元チャンピオンのボビー・レイホールからの要請を受けレイホール・レターマン・ラニガンへの移籍を決意、3年目のインディカー・シリーズに挑むこととなります。

第4戦サンパウロではインディ・カーで初となる3位表彰台を獲得、第11戦エドモントンではインディカー・シリーズ最上位となる2位を勝ち取り、結果、計5回のトップ10フィニッシュを果たし、2012年シーズンを14位で終えることとなりました。

2013年、この年佐藤琢磨さんはレイホール・レターマン・ラニガンを離れ、新天地となるAJフォイト・レーシングに移籍。

第3戦ロングビーチに参戦し、ここで佐藤琢磨さんはインディカー・シリーズ優勝した初の日本人ドライバーとしてその名を轟かせたのです。

NTT INDYCAR SERIES
@indycar YouTubeより

2017年、佐藤琢磨さんはAJフォイト・レーシングからホンダ系チームの最高峰アンドレッティ・オートスポーツへ移籍。

そしてインディカー・シリーズの天王山インディ500に挑みます。

予選でこれまでの最高位となる4番グリッドを獲得した佐藤琢磨さんはラスト5周でトップに立つと、そのまま後続を振り切って栄冠を勝ち取ったのでした。

日本人の優勝は、100年を越すインディ500の歴史でもこれが初めて、まさに初制覇

佐藤琢磨さんにとっては2013年第2戦ロングビーチに続くキャリア2勝目となりました。

2018年に入り、レイホール・レターマン・ラニガン・レーシング(RLLR)に6年ぶりに復帰した佐藤琢磨さん。

シーズン中盤からは徐々に復調し、第12戦アイオワでは今季初の表彰台を手に入れたのに続き、第16戦ポートランドでは尻上がりにポジションを挽回。ついにトップに立つとキャリア3勝目を勝ち取ったのです。

そのような実績を引っさげ、佐藤琢磨さんは2019年シーズンもRLLRからインディカー・シリーズに挑むことになりました。

迎えた第15戦セントルイスの予選で5番グリッドを獲得、最後は2番手を0.0399秒差で凌いで優勝

インディカー・シリーズに挑戦して初めてシーズン2勝目を飾ると共に、市街地コース、ロードコース、ショートオーバル、スーパースピードウェイという、インディ・カーで開催される4つの異なるタイプのコース全てで勝利(現役ではわずか5人)を収め、エリートドライバーの仲間入りを果たすのでした。

2020年に入り、第7戦はシリーズ最大の一戦となるインディ500

レース残り15周となった185周目でトップに立つとそのままフィニッシュ、2017年に続く通算2勝目を飾ります。

ちなみにインディ500で2勝以上を上げたドライバーは史上20人しかおらず、佐藤琢磨さんはインディアナポリスの歴史にその名を刻み込んだのでした。

そして2021年シーズンが終了してしばらく経ったところで、佐藤琢磨さんがRLLRを離れることが発表されます。

翌2022年、前年限りでRLLRを離れた佐藤琢磨さんは、トップチームではなく、敢えてデイル・コイン・レーシング・ウィズRWR(DCR)への移籍を選択。

DCRは、インディカー・シリーズにエントリーするチームのうち、”もっとも規模が小さい”とされるものの、1年を通じ同じスタッフと共に参戦できること。

また、チームオーナーであるデイル・コインのインディ500に対する並々ならぬ情熱が加入を決断させたと佐藤琢磨さんは語っていました。

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Takuma Sato 公式Instagramより

開けて佐藤琢磨さんの2023年。

新しく加入した先がチップ・ガナッシ・レーシングという、インディ500で上位争いを演じてきた実績を誇るトップチーム。

ただし、佐藤琢磨さんにとっては2010年にインディカー・シリーズへの挑戦を開始して以来初めての、スポット参戦を経験することとなりました。

つまりオーバルレースだけの出場で、ロードレースや市街地レースには他の若手レーサーが出場するというものでした。

2023年シーズンを締め括るレースはゲートウェイで開催。

結果的に通算70ポイントを獲得した佐藤琢磨さんはシリーズを29位で終えています。

takumasato_official
Takuma Sato公式Instagramより

去就への想い、引退の意思は?

佐藤琢磨さんは2023年シーズン終了後、来季に向け去就への想いや引退の意思などについてインタビューで次のように答えています。

日本のファンのみならずアメリカのメディアも注目していた佐藤琢磨さんの去就。

2024年に入り出演した東京オートサロンや大阪オートメッセなどで「挑戦は続けたい」と公言していたとはいえ、来シーズンの具体的な目標も引退の意思についても、”白紙”として多くは語りませんでした。

2024「インディ500 」参戦決定!!

そしてついに2024年2月、佐藤琢磨さんのインディ500への出場が公表されたのです!

しかも、古巣レイホール・レターマン・ラニガン・レーシング(RLLR)に復帰しての参戦。

RLLRは2月16日、チームリリースを通して2度のインディ500王者である佐藤琢磨が5月26日に決勝を迎える第108回インディアナポリス500マイルレース(インディ500)においてチームに復帰すると正式に発表。

日本の金属加工機械メーカー『アマダ』の米国法人、アマダ・アメリカがメインスポンサーとなり、佐藤琢磨さんの乗るカーナンバー75号車のリバリーイメージも公開されたのです。

レイホール・レターマン・ラニガン・レーシング
@RLLracing
チームの発表 Xより

感慨深いのは、佐藤琢磨さんがRLLRに、2012年に加えて2018~21年までの計5年間も在籍しており、インディ・カーで戦うなかで最も長く所属していたチームだということ

それは戦績にも顕著に現れていて、インディ・カー通算6勝のうち、4勝をRLLRで飾っており、14回の表彰台のうち10回も同チームにいた時のものだということ

まさに、今ふたたび返り咲くに相応しいドンピシャリのチームだったと言えるのではないでしょうか。

この発表には海外ファンからも続々と反響が寄せられていましたので、ここに一部を紹介

インディ・カーには近年、若いドライバーがどんどん台頭し活躍しているなかで、47歳となる現在においても尚、ドライビング・オファーがあるというのはやはりスゴい!

2010年のインディデビューから15年が経ち、参戦レース数も計220戦を超えた今となっては、佐藤琢磨さんを、インディ・カーで最も成功した日本人ドライバーと評しても何ら異論は出ないでしょう。

さらに3月18日、RLLRは、3度目の優勝をかけ今年のインディ500に挑戦する佐藤琢磨さん支援のために、パナソニック・オートモーティブ、ニテラ、デロイト トーマツ、NAC、そしてホンダといった、彼を長年サポートしてきた日本企業がスポンサーとなることが新たに発表されました。

お金(資金)が途絶えればチーム消滅もあり得る、高コストモータースポーツ界にあって、このビッグニュースも又、かなりの話題をさらったようです。

そして先日、佐藤琢磨公式X(旧Twitter)アカウントで、新しいレイホール(RLLR)のファクトリーでシートフィッティングする様子を紹介した動画が投稿されました。

画面を通じて漂ってくる佇まいや話し方が何と言いますか…ホント上品でエレガントな方ですねー!

@TakumaSatoRacer
**佐藤琢磨公式Twitterアカウント Xより

インディ500決勝まであと60日を切り、決勝は5月26日に行われる予定です。

もうこれは楽しみしかありませんね!

みんなで佐藤琢磨さんのシビれる走りを応援いたしましょう。

最後までお読みくださり、ありがとうございました。


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